Article 10

ネパールから来た介護学生たち

The students from Nepal

MAP

名古屋港の近くで滞在制作のアートプログラムに参加させてもらい、周辺で暮らす人たちにインタビューをしながら作品をつくっている。もとは、物流の港を開発するという理由で生まれたというこの街の歴史と、その開発を通して集まった海外も含む様々なルーツをもつ人たちに興味を持ち、彼らの語りで風景画のようなものを作れないかと始めたプロジェクトだった。

港の完成と街の誕生からはすでに100年以上が経っており、その間に港は物流の機能を他の埠頭へ移し、今は観光スポットとしての形だけの港となっている。埠頭には大きな公園や、展示場、展望台、水族館、そしてそれらをつなぐモニュメンタルな橋があるが、休日は家族連れで賑わうものの平日は閑散としている。ある日インタビューを受けてくれる人を探して街をぶらついているとき、橋の上から水族館の裏の原っぱで円をつくって座っている集団が目に入った。

細い道を抜けて水族館の裏にまわると、唐突に原っぱが現れる。そこで15、6人の男性が車座になって宴会を開いている。明らかに海外ルーツの顔立ちで、僕の理解できない言語で楽しげに騒いでいる。プロジェクトで海外ルーツの人にも話を聞きたいと思っていたところだったので、とりあえず声をかけてみようと思う。それまでにインタビューさせてほしいと伝えるものの怪訝な顔をされ断られ続けてきたので、その反応自体は慣れつつあったものの、今回はひとつのコミュニティにズカズカと足を踏み入れるバツの悪さも感じたりして、半ば怯えながら声をかけた。「楽しんでいるところごめんなさい、アートプロジェクトをやっていて少し話を聞きたいんですがいいですか?」このフレーズを言っている間、場が静まり怪訝な目が一斉にこちらに向けられる。ちょっと間があって「いいですよ!」「はい!」「どうぞ!」と複数人が笑いながら答えてくれる。止まった会話がまた一斉に始まる。

彼らはネパールから来ていて今は名古屋の専門学校に通っている同級生のグループだった。ネパールといってもそれぞれの出自はバラバラで、日本各地の日本語学校を経て名古屋にたどり着いたようだ。皆、25歳くらいで日本にきて3年だという。それでも日本語は驚くほど堪能で、多少のイントネーションの違和感はあっても、何も不自由なく会話できるし、かるい冗談だって会話にはさむことができる。

「何飲んでるの?」「ビール。アサヒ」「ネパールのとはちがう?」「同じ。ラベルが違うだけで中身は同じ」 「ネパールって寒い?」「名古屋と似てる。今ネパールも暑いです」 「学校では何を勉強してるんですか?」 「介護の学校で勉強してます」「介護かあ。今注目されている分野ですね」「でも大変です。面倒臭い。日本人は面倒臭いから介護やらない」僕は「ああ、そうかあ…」としか答えられない。 「学校にはネパールの人だけ?」「ネパールとベトナム。半々くらい」 「学校を卒業したらどうしたい?ネパールに戻りたいですか?」 「日本の会社に就職したい」「日本で働きたいです」うん、うんと頷くことしかできない。 「港はどう思いました?ネパールに海はある?」「ネパールは海ない。川ばっか」「でも港楽しいです」 原っぱのすぐ向こうには海がある。湾の一番内側に位置する埠頭なので両側を囲うように工場や物流の埠頭が目に入り、決して大海原のようなひらけた景色ではないけれど。

数日後に食堂のテレビを眺めていたら、海外の学生を受け入れている名古屋の保育・介護専門学校で、定員を大幅に超過した人数の受け入れ、それを隠すための虚偽報告や不認可の建物の使用、安易な受入れによる所在不明者の増加等の問題が明るみになったとニュースが報じていた。すぐに彼らの顔が浮かんだ。「日本で働きたい」と言った彼らを思い出す。どこの誰かも知らない僕を面倒な顔もせず笑いながら仲間に入れてくれた彼らを。たった数十分の邂逅ではあったけれど、その数十分がネパールという国やそこから来た留学生や技能実習生、不当なシステムに追いやられて所在不明になった人たちを共に在るものとして感じさせてくれる。この小さな経験が大きな偏見に対抗する手段になり得ると僕は思っている。

Article 11

街は誰のもの?

Who owns a city?